だから困る。
業田良家は、ふつうのマンガ家だった。ふつうよりは、特別におもしろいマンガを書くヒトだったように思う。でも、特別おもしろいマンガを書く、ふつうのマンガ家だった。
それが、"自虐の詩(じぎゃくのうた)"というマンガを書いているときに、カレになにかが降りてきた。
"自虐の詩"は、特別におもしろいが、ごくふつうのマンガだった。
でも、だんだんと、四コマなのにふっといストーリーを持つようになり、さいごには、神だか悪魔だか、はたまた精霊だか、とにかく上部構造のなにかがカレに降りてきた。
泣いてしまった。カレも書きながら泣いていたにちがいない。
評論家の呉智英氏は、"自虐の詩"の人間のクズを見る目線は、キリスト教のそれに近いよううに思う、と言った(NHK BSマンガ夜話)。わたしもそう思うし、その目線は、べつにキリスト教にかぎったものではないと思う。
ダメな人間はダメなままに、笑っていいんやらわからんぐらいにみもふたもなく書いてんのに、人間が生まれてくること、自分が生まれてきたことをすばらしいと思うことができた。
そうして、わたしにとっては、カレは特別なマンガ家になった。
呉智英氏のように、"布教活動"はしないものの、"自虐の詩"は、わたしにとって、もっとも大切な本のひとつになった。特に最後の5巻。
でも自分は、カレの作品をさけるようになった。いつも気にはなってたが、長いあいだ、手にとることはなかった。
カレとカレのマンガが、恥ずかしく、読むことが苦しく思われたからだ。
ひさびさにこのマンガを読んだのは、映画が評判になってたから。
本の表題にもなっていて、映画化もされた、短編"空気人形"は、予想どおり、予想以上に衝撃的だった。第一話の、"わたしを愛してください"からはじまってのこの短編だが。
心ん中で、ウォーっと叫んでしまうくらいに心揺さぶられた。ゆり動かされた。苦しい、せつない。「感動」ゆう言葉を使うことが、自分の中で適当でないように思えるぐらいに複雑で、この気持ちをなんと言ったらヒトに伝えられるやらわからない。
カレは、かわっていなかった。いつぞやカレに降りてきたなにかは、いまもカレのそばにいて、なにかをカレにつぶやき続けているようだった。
業田良家という男は恥ずかしい。業田良家という男が書いたマンガは恥ずかしい。
「恥ずかしいから困ります」、「苦しいからやめてください」、ゆうてんのに、ぐいぐい肩をいれてふところに入ってこられるような感じ。
だから困る。
"ゴーダ哲学堂 空気人形" 業田 良家 (著)
出版社: 小学館 (2000/2/1)
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