2012年7月9日月曜日

”オオカミの護符” 小倉 美惠子 (著)

感動しました。わくわくドキドキできました。作者と一緒に、大冒険ができました。

一枚のお守り札をきっかけとして、どんどんのめりこんでくさまは、"未知との遭遇"のお父ちゃんなみでした。マッシュ・ポテトのヤマを思い出すぜい。

その背中を押したのは、正体不明のなにかではなく、先祖から伝わるものを当然のこととして受け入れ、その土地にふさわしく、その土地の自然をたより、おそれ、つましく暮らしていた祖父母の記憶。

作者は自分とあまりかわらんぐらいの年なんじゃけど、考えたらそのへんが限界かもしれない。自然とともに生きてたヒトの記憶が、ぎりあるぐらい。

うちらのへんは山ばっかりで、すぐに海。山の集落は静かに息をひきとっている。か、懸命に生き残りをかけている。
山のヒトや作者ゆうとこの山のお百姓さんがおおくいたはずであるが、人を容易によせつけないような山も、里をはぐくむ山も、もう虫の息。

いま山に限らず、集落が(ムラか)生きてるのは、70代から80代を超えるお年寄りたちが仕事をしているからだ。機械使ったり、化学肥料を使(つこ)たりしてても、"まだ"先祖の暮らしの延長線上にあると思う。
記憶がどうのゆうたけど、そんな人たちがまだ現役でいる。ただ、5年、10年後のことを考えると、かれらの仕事どころか、記憶や記録すら絶望的な気がする。

自分らは、もうふっつりと切れてしまった。暮らしという言葉がよそよそしい。この本の言葉を借りれば、稼ぎばかりで父祖からついできて、自分の子らに引き継いでくような仕事がない。

単純に職業(たんてきにいうと農業とか)を引き継ぐとか引き継がないとかの話でなく、いま住んでるこの土地を尊敬し、それにふさわしい暮らしをしてないゆうこと。

でも、本を読み終えての気持ちは、すがすがしく明るいもんだった。不思議だけど。

それと彼女の仕事の一端を見ただけじゃけど、研究者でなくても、渋沢栄一みたいなバックがおらんでも、こんなに高く、遠くへ飛べるんだ、と感動した。

彼女の、キヨくアカい(素直な)心が縁を呼び、彼女だけでなく、彼女の仕事にかかわった人たちまでも、はるかな遠くへ運んでくれたように思う。

すげー映画が見たい。

ところで、うちにある本と、安直にwikipediaで読んだ限りでは、うちとこのへんにオオカミをまつる風習があったとの話は出てこんかった。
オオカミが神格化されたのはずいぶん古いことで、中国山地にはとうぜん山の人たちが多くいたはず。

なのになぜか出てきたんは、"イヌガミ"さんだけでした("日本の民俗(35)山口"、宮本常一・財前司一監修、第一法規出版)。

あれって、山の人たちの信仰ぢゃないよね?









”オオカミの護符”
小倉 美惠子 (著)
出版社: 新潮社 (2011/12/15)

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