どうでも確かめてみたいことができて、さがしてさがして、たどりついたのがこの本。
条件は、宮本常一氏が書いたもので、写真を多く掲載した、広島近辺の島しょ部についての本。
もともとの目的は別として、ほんとに読んでよかった、と思える本だった。と同時に、とても悲しい、寂しいきもちになった。
1.自分の知っている、行ったことのあるところがたくさんでてきてうれしい、2.いまに続くたそがれが、40年以上前に始まっていたり、懸念されていたりする、ゆうことで。
文面は、とても40年以上前に書かれたものとは思えないほど、とても読みやすい。旧仮名がつかわれていない、というレベルではなく、文体がほんとに口語に近く、言葉も、専門用語は必要なだけ、最小限しかつかわれていないように感じられた。
あくまで、"旅行の本"のようであった。ちょいと誤解されそうな言い方だが、観光の本だった。
しかし彼の旅(観光)は、名所旧跡をたずね歩くものであろうハズがなく、口にのりするために人が懸命に働き、工夫するさまや、それらのはたらきによりつくられた風景を、"あるき、み、きく"ものであるようだった。
「観光とは、世界を均一化しようとする試みである」、みたいなことをだれかが言ってたが(正確な言葉と、だれが言ったかを忘れた・・・)、歩く巨人のゆうところの観光は、それとは対極にあるものだった。
観光地をおとずれても、彼の関心は、観光客が群れ歩くところにはなく、むしろ閑散として、とりのこされている、といってもよいような場所にむかっている。
ときに、どきっとするほど率直なものいいがあっても、いやなきもちにならないのは、彼の目が、常に普通の人々、それも、粗食にたえ、働いてきたような人々に向けられてて、姿勢も、忘れられようとしているものやヒトによりそうような感じ。同情や哀れみではなく、そばにいて見、なにかできないかといっしょにおろおろするような。
とにかく、もう40年以上前に、ところによってはもっと前から、いまに続く"たそがれ"が始まっていたことにショックを受けた。
まだ消えてはいない。しかし確実に消失点にむかって進んでいる。長いのか短いのかわからんが、たそがれの時代を、島も、ヒトもおくっている。
常一さんは、かれらを放置してきたわたしたちの責任と述べている。政治の貧困とも述べている。が、政治の貧困イコール、わたしたち、いや、わたしの心根の貧困と思う。
島や中山間の生活を、尊敬しながらも、自分は一歩もそこに進むことはせず、便利な生活を送っている。自分ができないことを、ヒトに勧められるハズがない。
自分のヒキョウな態度に、ちょっと自己嫌悪になんな。
理想郷が存在するためには、まず理想的な人間がいなけりゃならない。この苦しい命題は、マンガ:アップルシード(士郎正宗著)4巻?の、重要な問いだったんで、頭にしみついたんじゃけど、自分は、とてもじゃないが理想郷にふさわしい人間じゃない。楽園を追放されたんじゃなく、逃げだしたようなもんだ。
粗食にたえ働く人間が、努力と工夫で飯が食えるところ、そこに独特の風景が生まれ、それが彼の考える楽園で、おとずれるにふさわしいところなのではないか、と思った。
で、確かめたいことはどうなったかというと、一つは解決(見込みどおり)。も一つは、継続中。
この本を持って、春にとある島をおとずれれば、こ踊りするような発見があるかも、ゆう状態です。
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