2011年10月30日日曜日

”瀬戸内離島物語”福島菊次郎/著・写真

 1950年代の写真が中心なんかな?

"戦争が終わった"ころ(戦後はまだ終わってない)の、貧しく厳しい離島のくらしが中心に活写されている。

ながい背負い子。ひしめきあうように、ぎうぎうに急斜面によりそって立つ家屋。耕して天にいたる田畑。鼻たれの子どもたち。
太く固く、爪の間といわずしわの一本一本まで、黒い土や油が染み込んでいるのは、働くヒトの証(あかし)。
オトナも子どもも、はだしでセッタかわらじをはいてるか、そのまんまはだし。

ガキどもがずらっとならんで歯を見せている写真の中に、ひときわいい笑顔で歯を見せているボウズ頭のガキがいる。定年退職した知りあいのおっさんだった。

そして、出版当時の現在、80年代から始まった、上関の反原発運動とあたらしい農業の取り組み(有機農法)で終わる。

かれ(菊次郎さん)の写す写真や言葉は、その時々の真実だと思うし、写真はうそをつかない。ただし、かれの思いや、思うストーリーをおびている。

かれは怒(いか)れるヒトだ。かれの怒りはもっともだと思う。でも、自分は、かれと一緒に怒ることができない。読み終えて、罪の意識ゆうか後味の悪さが残る。

離島に限らず、山村やマチバでない集落はみな同じと思うとるんじゃけど、公害も若者の止まらない流出による過疎化も高齢化も、一次産業の終焉も、漁業資源の枯渇も、みんな、自分らが望んだ未来の結果なんじゃないか、ゆう気がしてならない。

昭和50年代ごろまでにぎわっていた"駅前"も、空き店舗が増え、にぎわいがもどる道筋は見えない。熱量死がすすんでいるのはひなびた集落だけの話じゃない。

"忘れられた日本人"を英訳された方が、生まれてきた集落は、消えてゆくのも自然なのではないか、のようなことを言われていた。ものすごく重い言葉だった。

沖家室は橋がかかり、離島ではなくなった。しかし日和見(ひよりみ)の内航船がまた瀬戸内を駆け回る日が来るはずもなく、家室千軒が復活することはない。多くの港町がそうであるように。
鞆の浦ががぜん注目を集めるようになったが、それは"観光"の話であって、郷愁には同情がまじっているように思う。
鞆が栄えたのは、美しい風景や町並みによるものでなく、清濁あわせた波が、欲望や富が打ちよせていたからだ。

宮島は世界遺産になり、海外からも観光客が訪れるようになったが、江戸期の活気を取り戻すことは難しいだろう。神の島を訪ねることの熱い信仰心はいまないと自分は思ってるし、そのうらおもての色町や芝居町はすでになく、そのようなものが受ける時代ではもちろんない。

それでも、山や島の集落が、ただ死んでゆくのを受け入れる気にはなれない。マチバに住む人間の、無責任な感傷であるが。

上関の原発闘争は続いている。3.11以降少し熱をおびたかもしれないが、そりゃあ30年におよぶ議論の、ほんの一場面であると思う。
島での地道な議論や活動も行われている。周防大島町の郷土大学など。"再生"ゆうてもまだ死んじゃあいねえ、とばかりに。






"瀬戸内離島物語"
福島菊次郎/著・写真
社会評論社1989年発行

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